このページの本文へ

特集

  • 神社・歴史

100を超える神社と歴史

延喜神名帳(えんきしきじんみょうちょう)と呼ばれる、平安時代にまとめられた格式のある神社の一覧表に掲載されている神社が16社、さらには100社を超える神社があり、たくさんの神様が住むとされる隠岐。
この章では隠岐にある代表的な神社のいくつかにフォーカスしていきたいと思います。

目次

  1. 自然界との神聖なつながり
  2. 4社の名神大社
  3. 遠流の天皇と航海の神様

自然界との神聖なつながり

玉若酢命神社(隠岐の島町)は、隠岐をつかさどる神の一柱とされる玉若酢命を祀っています。
また、隠岐國すべての神々を一つにまとめて祀る「総社」としても重要な地位を締めています。総社制度は、かつて管轄下のすべての神社を参拝する必要があった国司の負担を軽減するために、導入された制度で、この制度の確立により、国司は1度の参拝ですべての神々に経緯を表することができるようになりました。玉若酢命神社は天武天皇(631-686)の勅命により建立されたと考えられています。

 現在の本殿は1793年に建てられたもので、日本各地の主要な神社の要素を組み合わせた「隠岐造り」をいう建築方式で建てられています。神社を参拝した後は、近くにある億岐家住宅・資料館を訪れてみましょう。この建物は代々神社と関わりのある億岐家の住宅です。建物内の小さな資料館には、神社に関連する歴史的・文化的に重要な品々が展示されています。神社のすぐ後ろには古代の古墳群があり、価値を説明できるガイドと一緒に訪れることをおすすめします。
 本殿の前にある壮大な杉の木は、八百杉と呼ばれています。人魚の肉を食べて不老不死を得たとされる伝説の海士、八百比丘尼に由来します。八百比丘尼は日本中に木を植え、八百杉もその一つです。樹齢は1700年以上と推定され、長年の時を経て中の幹は空洞化したため、現在は支柱で支えられています。
八百杉は島後の四大杉の一つです。残りの2本の杉は隠岐諸島で最も高い大満寺山(標高608メートル)の深い森の中にたっています。

 大満寺山の中の四大杉の1つ、乳房杉は御神木とされており、鳥居があるのも特徴です。
樹齢約800年で、20本以上の大きな下垂根があり、これが垂れた乳房のような形をしていることからこの名前がつきました。乳房杉の前までは車で行くことが可能ですが、もう1つの四大杉である、窓杉(幹に1.8m幅の大きな裂け目があることからこの名がついています)に到達するには大満寺山をさらに登っていく必要があり、地元のガイド新しいタブで開きますと一緒に行くことをおすすめします。窓杉からさらに進んで山頂まで登れば、素晴らしい景色が望めるでしょう。
 四大杉の最後の1本は樹齢約600年のかぶら杉で、地上約1.5mのところで6本の幹に別れているのが特徴です。道路のすぐ脇にあるため、ドライブがてら見ることが可能です。

 乳房杉からそう遠くないところに、大山神社新しいタブで開きますという神社があります。鳥居の奥に、御神木の杉の木があります。この木に名前はありませんが、西暦偶数年4月の第一日曜日に開催される、布施の山祭り新しいタブで開きますで重要な役割を果たします。祭りのハイライトは、地区の若者たちが林業順自社の安全を祈る儀式の一環として、昔から伝わる労働歌を唄いながら、この杉の木にカズラ(つる草)を巻き付けることです。

 壇鏡の滝(だんぎょうのたき)は杉の森の中にある、壇鏡神社の両側を流れ落ちています。右側の滝は雄滝、左側は雌滝と呼ばれています。雄滝は約50メートル、雌滝は約40メートルの高さがあります。壇鏡の滝は「日本の滝、百選」に選ばれており、水には神聖な力があるとされています。

 入り口には鳥居があり、木々が立ち並ぶ参道を通って滝まで歩くのに約10分かかります。鳥居と、その前に立つ2本の大きな杉の木にまつわる興味深い言い伝えがあります。元々、鳥居は杉の木の前に建てられていたのですが、かつて旧隠岐国では出雲大社の式年造替のため、60年ごとに木材を寄進していました。しかし、地元の住民たちは自分たちの木を守りたいと考え、鳥居を移動して2本の大きな杉の後ろに建て直すという賢明な策を思いつきました。その結果、住民たちはこれらの木々は神社の敷地ではなく私有地にあると主張することができ、その木々は何世紀にもわたって伐採を免れることができたのです。

4社の名神大社

 名神大社とは霊験が著しいとされる名神祭の対象となる神々を祀る神社で、古代における由緒のある社格の1つとされます。
隠岐にはこの名神大社に選定されている神社が4社あります。927年に編纂された法典、延喜式には、日本全国の由緒ある神社2861社が記載されており、そのうち名神大社に指定されたのはわずか224社で、そのほとんどは当時の都であった京都またはその近郊に位置していました。遠隔地の隠岐国に千年以上前から4社もの名神大社があったという事実は、朝廷との強いつながりを示す証拠となっています。

水若酢命神社
 水若酢神社(隠岐の島町)は名神大社であるだけでなく、一宮の称号も持ち、旧隠岐国で最も格式の高い2つの神社の一つとなっています。伝説によると、海から現れて現在の神社がある場所にやってきた神を祀っています。本殿は隠岐造りで建てられています。神社の近くに小さな相撲場があるのは、隠岐では実はよくみる光景です。相撲は今日ではスポーツとして知られていますが、神道と密接な関係があり、神々への奉納として神社で行われる儀式として始まりました。水若酢神社の相撲場は特に特別なもので、約20年に1度、神社の屋根の葺き替えと神の再安置が行われる際に古典相撲が開催されます。また、11月3日には小規模な年次大会も開催されています。

 この神社では西暦偶数年の5月3日に水若酢神社祭礼風流新しいタブで開きますが開催され、神楽や流鏑馬などが行われます。神社の近くには魅力的な西洋建築があり、隠岐郷土館として島の民俗を展示しています。この建物は1885年に建てられ、かつては行政庁舎や郵便局として使用されました。

由良比女神社
島前の一宮である由良比女神社(西ノ島町)は、イカ寄せの浜と呼ばれる浅い入り江の近くにあります。かつては秋から冬にかけて回遊するイカが入り江に群れをなし、地域の住民は酢でてイカを捕まえていました。この神社に祀られている由良比女命とイカの関係についてはおもしろい伝説が残っています。由良比女命が大きな桶に乗って浦郷湾をわたっていた時、イカたちがいたずらで女神の手を噛んだため、女神を怒らせてしまいました。このいたずらの償いとして毎年秋から冬にかけて大量のイカが湾に泳ぎ寄せ、自ら捕まえられることを許したとされています。近年では実際のイカの数は減少していますが、神社の周辺ではイカのモチーフを見ることができます。

伊勢命神社
伊勢命神社(隠岐の島町)新しいタブで開きますは、黒曜石の産地として知られる久見地区にあります。黒曜石はその鋭利な切れ味から、かつて先史時代の石器づくりの材料として重宝されていました。日本でも有数の良質な黒曜石が採れた隠岐は、黒曜石の産出地域として約3万年前から日本全国と取引を行っていました。
伊勢命神社の力強い神は、外部の勢力からこの地域を守ると信じられており、当時の黒曜石の価値を鑑みるととても重要な神様として祀られていたことがわかります。神社の年次祭では、境内の神楽殿で一晩中神楽が奉納されます。久見神楽と呼ばれるこの祭事は、西暦偶数年は7月15日に、西暦奇数年には7月16日に開催されます。

宇受賀命神社
宇受賀命神社(海士町)は鳥居から神殿までの間に広がる田んぼが特徴的です。とくに稲穂が青々としげる夏から秋の黄金色にそまる時期が見ごたえがあります。
この神社に祀られている神、宇受賀命は、西ノ島の比奈麻治比賣命(ひなまじひめみこと)という女神に恋をして、ライバルとの勝負に勝利し、見事、女神の愛を勝ちとりました。
二柱は結婚し、柳井姫(やないひめ)を授かりました。柳井姫は、ハート型の空洞があることからハート岩が有名な明屋海岸(あきやかいがん)で誕生したと言い伝えられています。このことから明屋海岸から宇受賀命神社へと続く道は幸せな結婚と健やかな子育てにご利益があるとされています。

遠流の天皇と航海の神様

隠岐神社
隠岐神社(海士町)は1939年に建立された比較的新しい神社ですが、隠岐で最も崇拝されている歴史上の人物の1人である、後鳥羽天皇(1180-1239)を祀っていいます。この神社は、後鳥羽天皇の崩御700年を記念して建立され、隠岐造りの建築様式を採用しています。
後鳥羽天皇は1221年の承久の乱で幕府に敗れた後、隠岐諸島に流罪となりました。食料やその他資源が豊富な隠岐諸島での生活は決して過酷なものではなく、後世を快適に過ごしたと言われています。和歌にも造詣が深く、多くの唄を残しました。代表的な和歌の数々が隠岐神社の庭園に建つ石碑に刻まれています。天皇の生涯と功績については近くにある、後鳥羽天皇資料館でより詳しく知ることができます。夜間参拝もすることができます。境内にはたくさんの桜の木があり、春には花見の名所としても人気があります。

焼火神社
駐車場から徒歩で20分ほど登ったところに焼火神社(西ノ島町)はあります。巌がかぶさるように本殿が建っており、その厳かな空気にまるで異世界に足を踏み入れたかのような感覚を覚えます。神社の一部は1732年にまで遡り、隠岐諸島で最も古い木造の神社です。島前3島の中で最も高い標高452メートルの焼火山の中腹に位置しています。
この神社は海上安全の神を祀っており、約千年前の伝説によると、海から神火があがり、山を登って現在の本殿がある洞窟に着地したとされています。のちに流罪となった後鳥羽天皇は、1221年に隠岐諸島への航海の途中、この神火に導かれたという言い伝えが残っています。この山から灯る火は、かつて船乗りたちの道標として機能し、江戸時代(1603-1867)に北前船(商船)で航海していた船乗りたちは、焼火山を通過する際に航海安全を祈願しました。境内にある社務所はかつて神主とその家族が住んでいました。現在では定期的に神主が訪れて儀式などを執り行っています。旧正月には島前3島の各地域の代表者たちが参拝に訪れ、毎年の例大祭は7月23日と24日に開催されます。

隠岐のおすすめスポットや体験を紹介するデジタルパンフレットはこちら