始まりは黒曜石から
黒曜石新しいタブで開きますは、粘度の高い溶岩が急速に冷却されてできた火山ガラスの一種で、この石を割ると非常に鋭利な刃物となり、先史時代の人々にとって石器の材料として貴重な資源でした。日本国内で黒曜石が発掘される場所は100か所にも及びますが、隠岐諸島は、その中でも特に高品質の黒曜石が産出される6か所のうちの一つです。隠岐の黒曜石は、隠岐の島町沿岸の約550万年前の地層で発見されていますが、品質には差があり、島内で高品質の黒曜石が産出されたのは、久見(くみ)、加茂(かも)、そして津井(さい)の3か所のみと考えられています。
隠岐の黒曜石は、3万年前から日本各地の人々に求められ、こうした交流が島の文化形成に影響を与えました。発掘調査によると、主に中国地方で取引されていましたが、北は新潟県、東は四国にまで広がっていたことがわかっています。また、隠岐諸島は712年に完成した日本最古の歴史・神話記録である『古事記』にも記されています。日本の起源神話によれば、隠岐諸島は淡路島と四国に続いて神々イザナギとイザナミによって創造された3番目の島でした。8世紀における『古事記』でのこの重要な言及は、朝廷が隠岐諸島とその黒曜石を高く評価していたことを示唆しています。
島流しにされた天皇たち
724年、隠岐諸島は統治者に逆らった者を島流しにする場所として定められました。最初は貴族や高官、さらには二人の天皇といった重要人物が流されましたが、江戸時代中期(1603年~1867年)になると軽犯罪者も島に追放されるようになりました。隠岐諸島への流刑は罰であるものの、高貴な身分の人々を過酷な環境に置くことは許されませんでした。遠く離れた隠岐諸島は、豊かな資源と文化を持つ理想的な場所と考えられていたのです。
後鳥羽天皇(1180年~1239年)は、1221年の承久の乱で幕府に敗れた後、中ノ島の海士町に流され、60歳で亡くなるまでの19年間をそこで過ごしました。天皇は和歌を詠んだり、地元の人々に愛されたりしながら、穏やかな余生を送っていたようです。1939年、没後700年を記念して隠岐神社(海士町)が建立されました。神社や近くの後鳥羽院資料館を訪れ、彼が島の文化に与えた影響についてぜひ学んでみてください。
1332年、後醍醐天皇(1288年~1339年)は、後鳥羽天皇と同様の理由で隠岐諸島に流されました。彼が住んでいたのは恐らく西ノ島であったと考えられていますが、一部の説では島前ではなく、島後(隠岐の島町)であったとも言われています。はっきりしているのは、彼が隠岐諸島にいたのはわずか1年間程度で、その後、京都(当時の日本の首都)へ大胆な脱出を果たしたということです。後醍醐天皇は日本の政権を取り戻しましたが、再び追われることになります。その後、1337年に奈良の南にある吉野山で独自の朝廷を樹立し、2年後にそこで崩御しました。西ノ島町にある黒木御所跡・碧風館では、後醍醐天皇の旧居跡を訪れたり、彼について詳しく学ぶことができます。
陸と海に形作られた伝統
牧畑農業
山岳地形で、農耕に適した土地が比較的少ない隠岐で、食料生産において自給自足するために生まれた知恵が牧畑農業新しいタブで開きますです。土地を石垣(みょうがき)と呼ばれる石で造った垣根で4つの区画に区切り、それぞれの区画を4年間のサイクルで牧草地、粟、大豆、小麦などの作物の栽培地として順番に利用しました。牛や馬の糞尿は作物の生育を良くするための栄養となります。また、作物を交代で育てることで連作障害を防ぐ効果もありました。牧畑がいつ最初につくられたかは、明確ではありませんが、13世紀の文書にその記述があります。効率的でサステナブルなこの食料生産方法は、隠岐では1970年代初頭まで続けられ、知夫里島が最後までこの農法を行っていました。知夫里島の赤ハゲ山の山頂近くで、石垣(みょうがき)の跡を見ることができます。
舟小屋(ふなごや)
漁業は、何世紀にもわたって隠岐島民の生活の不可欠な部分でした。かつて木造船だった頃は、海水に浸したままだとフナクイムシという貝に食べられてしまうため、船を使わない時は陸にあげるか真水につける必要があり、また、冬場の風や雪の影響もあって舟小屋を立てて船を守っていました。舟小屋新しいタブで開きますは海岸線に沿って建てるため、船を海水から直接中に引き上げることができます。このような舟小屋は日本海側でしか見ることができません。太平洋側では、干潮と満潮の差が2メートルから5メートルと大きく変化するため、船を岸に引き上げるのが非常に難しいのですが、日本海側では1日の干満差がわずか50cm程度であるため、このような舟小屋を造ることが可能でした。杉の皮を葺いた上に、石と竹を敷いて建てられるこの伝統的な舟小屋は、隠岐の島町にある都万(つま)で見ることができます。
北前船(きたまえぶね)
北前船新しいタブで開きますは、江戸時代中期から19世紀末にかけて、大阪と北海道の間を行き来していた商船です。彼らは日本海側を航海していましたが、初期の船の帆は耐久性が低かったため、大阪と北海道の間を1年に1往復しかできませんでした。しかし、1780年代には織物が改良され、船は下関(山口県)、隠岐諸島(島根県)、佐渡島(新潟県)を結ぶ新たな航路で年間2往復が可能になりました。
北前船の交易船が頻繁に訪れるようになり、隠岐諸島は寄港地として必要物資の補給や乗組員たちの休息の場を提供し、その一方、船は他の場所からの文化や経済を持ち込みました。年間4500隻以上の北前船が隠岐諸島の港に入港したとされています。西ノ島町にある焼火山山頂にある焼火神社は航海の安全の神を祀っており、北前船の航海者は通過する際に祈りを捧げたと言われています。
ラフカディオ・ハーン
有名なアイルランド人作家・学者のラフカディオ・ハーン(1850-1904、日本名・小泉八雲)は1892年に隠岐諸島を訪れました。彼は14年間日本に住み、島根県松江市で妻の節子と出会って結婚しました。ハーンは著書『知られぬ日本の面影 (二)』(1894年)の中で隠岐への訪問について非常に好意的に書き、人々の親切さと島への愛を表現しています。海士町にある八雲広場という小さな公園には、ハーンとその妻の像がベンチに座っています。
儀式に根差した慣習
隠岐神楽
神楽は神を敬うために唄と舞を捧げる神道の宗教儀式です。島根県の石見地域は神楽でとても有名ですが、隠岐諸島にも代々受け継がれてきた独自の神楽があります。この神楽は、かつて特定の家系に属する「社家」と呼ばれる人々のみにより行われていましたが、現在では地元の住民も踊りを奉納できるようになりました。隠岐神楽新しいタブで開きますは「島前神楽」と「島後神楽」に分かれており、両者にはいくつかの違いがあります。島前神楽は速いテンポで活気のある音楽が特徴で、踊り手は4畳の舞台で演じます。一方、島後神楽はよりゆったりとした厳かな音楽に合わせて演じられ、2畳の舞台で行われます。
隠岐古典相撲
相撲はスポーツではなく、もともと儀式として始まったものだということをご存じでしょうか。
かつて神社で重要な場面で神様に敬意を表すために行われていました。隠岐の古典相撲も神様への奉納相撲としての、一面が強く、隠岐の一の宮である水若酢神社(隠岐の島町)の屋根が葺き替えられた際など、重要な出来事を祝うために行われてきました。
現在では、新しい公共施設が完成したときにも行われ、夜を通して取り組みが続きます。通常の相撲とは異なり、観客も力士と一緒に塩を撒いて土俵を清めます。もう一つの特徴として、力士は全ての対戦相手と2回ずつ戦います。最初の試合で勝った力士は、2回目の試合では相手に勝たせなければならないため、どの力士も1勝1敗となります。これは、島の小さなコミュニティで調和を保つための方法でした。このため、隠岐の古典相撲は「人情相撲」とも呼ばれることがあります。
牛突き
闘牛は複数の地域で見られますが、隠岐の闘牛は牛突きと呼ばれ、日本では最も古いものと考えられています。1221年に隠岐に流された後鳥羽上皇が、2頭の子牛が頭を突き合わせるのを見て喜んだということから、後鳥羽上皇の慰めのために始めたのが由来と言われています。この風習は、現在まで受け継がれており、試合はそれぞれの牛の牛使いが監督する中で行われます。片方の牛が戦いから退くと終了し、残った牛が勝者とされます。隠岐の伝統相撲と同様に、牛にも順位があり、その取り組みは神道の儀式に則って行われます。年間に6回の大きな催しがあり、その他の時期にも観光用の牛突きが行われます。
蓮華会舞(れんげえまい)
毎年、隠岐国分寺(隠岐の島町)で伝統音楽に合わせて「蓮華会舞新しいタブで開きます」が奉納されます。隠岐諸島は神道との強い結びつきがある一方で、仏教とも深い関わりを持っています。奈良時代(710–794年)にまで遡る歴史を持つ隠岐国分寺は、隠岐諸島の寺院の中でも最も重要な存在とされています。
この舞は弘法大師(空海、774–835年)の命日にあたる4月21日に行われます。空海は真言宗の開祖であり、日本各地の仏教伝説に登場する高僧です。蓮華会舞は、隠岐諸島に1000年以上前に伝わったと考えられており、かつては120種類もの舞が奉納されていました。現在は、寺院境内の木造舞台で毎年7種目の舞が奉納されています。蓮華会舞は、舞楽に起源を持ち、中国、韓国、インド、東南アジアを経て日本に伝来しました。これらの異文化から受け継がれた要素を取り入れ、舞手は色鮮やかな仮面や衣装を身にまといます。また、足で響かせる音も、独特で表現豊かな舞の特徴です。
ご旅行中に神楽、古典相撲、または牛突きをご覧になりたい場合は、電話またはお問い合わせフォームを通じて隠岐諸島ジオパーク推進機構にご相談ください。
隠岐の歴史について学ぶ
隠岐の成り立ちや歴史についてさらに詳しく知りたい方は、隠岐の島町のフェリーターミナル横にある建物の2階の隠岐自然館を訪れてみてください。隠岐諸島の成り立ちから、隠岐の地形から読み解く島の暮らしや、文化の繋がりを理解するのに役立ち、隠岐への冒険をスタートするのに最適な場所です。時間帯によっては解説員による30分程度の解説も行っていますので、解説のある時間帯に行くのをおすすめします(要予約)。他にも、後醍醐天皇が脱出までの1年を過ごされた行在所として知られている黒木御所阯に隣接する碧風館(西ノ島町)では後醍醐天皇にまつわる資料が展示されています。その他にも海士町の後鳥羽院資料館など、歴史などに関する資料館がございますので詳しくはこちらをご覧ください。