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後鳥羽上皇を祀る隠岐神社~創建85年式年祭~

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隠岐諸島島前の海士町に鎮座する後鳥羽上皇をご祭神とする隠岐神社。今年で創建85年の節目に当たり、10月20日に式年祭が執り行われました。隠岐の文化へ多くの影響を残した後鳥羽上皇。今回はそんな後鳥羽上皇と隠岐との関り、創建85年式年祭の様子をご紹介していきます。

目次

  1. 後鳥羽上皇と隠岐~隠岐への遠流と行在所”源福寺”~
  2. かつての後鳥羽院神社と御火葬塚
  3. 遠流の地「隠岐」~なぜ天皇は隠岐へ配流されたのか~
  4. 後鳥羽上皇の隠岐での暮らし~日本刀づくりと和歌づくり~
  5. 隠岐神社~創建85年式年祭~

後鳥羽上皇と隠岐~隠岐への遠流と行在所”源福寺”~

承久3年(1221年)に承久の乱によって隠岐へ配流された後鳥羽天皇(配流時は法皇)は、当地の源福寺を行在所としてお過ごしになりました。19年後の1239年2月22日に崩御して同25日に源福寺裏山で火葬にされ、遺灰を埋納して火葬塚が営まれます。1658年、松江藩主松平直政が廟殿を造営し、明治まで維持に努めましたが、1689年(明治2年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は一旦廃寺となります。

写真:後鳥羽上皇肖像画

かつての後鳥羽院神社と御火葬塚

海士町後鳥羽院資料館に所蔵される絵図(江戸末期)には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」が描かれており、江戸末期には、島民によりここで祭祀が行われていたといわれています。しかし、1873年(明治6年)、法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、1874年(明治7年)に後鳥羽院神社も取り払われました。それ以降も祭祀が続けられていたと言われ、後にこの神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされました。

写真:御火葬塚

1940年(昭和15年)の紀元二千六百年記念行事(※1)の一つとして、島根県による隠岐神社の創建が始まり、1939年(昭和14年)に完成し、1943 年(昭和18年)に県社に列せられています。今年はこの隠岐神社の創建85年の年となります。

※1:紀元二千六百年記念行事:神武天皇の即位から2600年の記念を祝った一連の行事

遠流の地「隠岐」~なぜ天皇は隠岐へ配流されたのか~

後鳥羽上皇が流された隠岐とはどのような場所であったのでしょうか。日本各地には流刑の地とされた場所がいくつかありますが、今回ご紹介した後鳥羽上皇や後醍醐天皇のような天皇が流される地として隠岐が選ばれたのは理由があります。隠岐文化を「遠流の地」としての特徴から紐解くことでその魅力をより深く知ることができます。

遠流の地となった謎を紐解くカギは隠岐のアワビにあります。かつての日本では、天皇の即位式や役人のボーナスとして実は隠岐のアワビが珍重されていました。また神社では隠岐のアワビがあって初めて祭事を執り行うこともできたとされています。いったいなぜ隠岐のアワビはこのように朝廷や神社の間で重要視されていたのでしょうか。その理由は「方角」にあります。隠岐諸島は陰陽道的な観点から考えた際、当時の都(京都)から見て吉祥の方角、つまり「めでたい方角」であったのです。現在では「陰陽道」や「陰陽師」というと映画や漫画など創作物でのイメージが強いですが、かつての日本では律令制の時代から陰陽寮とよばれる専門の部署があったほど重要視されていました。このような背景もあり隠岐で採れたアワビが重用され、尊い身分である天皇の遠流の地としても隠岐が選ばれたのだと思われます。また、遠流の地となったその他の理由として、隠岐は離島としては珍しく水が豊富で米作りも盛んであったため食糧が安定しているということや討幕運動を起こした政治犯を流す場所であったため容易に戻って来られない離島が適していたということも挙げられます。

写真・図:吉祥の方角の土地として京の都と関わりのあった隠岐

 

後鳥羽上皇の隠岐での暮らし~日本刀づくりと和歌づくり~

後鳥羽上皇は遠流となってから亡くなられるまで隠岐にて19年の時を過ごされ、和歌づくりや日本刀づくりに励まれました。日本刀づくりでは、凄腕の刀鍛冶を島に呼んで刀を作らせていました。鍛錬作業は鍛冶職人が行い最後の焼き入れ作業を後鳥羽上皇自らが行った作品もあり天皇家の菊家紋が施されています。この貴重な一品は後鳥羽院資料館に現在も展示されています。後鳥羽上皇が刀づくりに力を入れられたのは、平家の持ち出しにより三種の神器である草薙剣が紛失したため、後鳥羽上皇の即位の際には草薙剣無しであったことが理由ではないかと考えらえています。このような経緯から後鳥羽上皇は刀への一際強い思いがあったのかもしれません。

写真:海士町後鳥羽院資料館 来国光

また、隠岐にて後鳥羽上皇が最も力を入れられたのは和歌づくりであり、隠岐で呼んだ和歌をまとめた『遠島百首』が残されています。その他にも新古今和歌集の改訂にも熱心に取り組み18年の時間をかけて『新古今和歌集(隠岐本)』を完成させています。海士町の各地には和歌が刻まれた石碑や看板があり、旅をしながら後鳥羽上皇の和歌に触れることができます。また現在も海士町へ俳句大会や吟行ツアーなどで訪れる人も多く。和歌は過去と現在、海士町と日本各地を結ぶ懸け橋となっています。そして現在、海士町の住む人々は後鳥羽上皇のことを「ごとばんさん」と呼び親しんでいます。かつて隠岐の地にて力を注がれた和歌づくりや日本刀づくりを通して後鳥羽上皇は島の住民とも良い関係を築かれていたと思われます。

写真:後鳥羽上皇の和歌が刻まれた石碑

写真:式年祭スタッフさんの法被にも後鳥羽上皇の和歌が見られます。

隠岐神社~創建85年式年祭~

かつての後鳥羽院神社に代わり建立された隠岐神社は今年で創建85年となります。隠岐神社は隠岐造りと呼ばれる隠岐独特の建築様式で建てられており現在も地域の人々の心の拠り所であり、島を訪れる人にとっても欠かせない場所となっています。

10月20日には創建85年を祝う式年祭が行われました。前日の風雨の影響もあり一部スケジュールの変更はありましたが、当日は雨も上がり雲間から光が差す中、厳かに祭事が営まれました。

神職により祝詞が奏上された後、海士町各地から持ち寄られた神饌が供えられます。

島の中学生が務める巫女による「承久楽」が奉納されます。この承久楽は隠岐神社にのみ伝承されています。

神輿渡御出発式では荒々しくも荘厳な獅子と天狗面の舞が営まれます。

神輿行列は神社から参道を通り、島の役場である海士町役場まで向かいます。

海士町役場にて御旅所祭が執り行われ、再び承久楽が奉納されます。

役場での神事を終えた後、再び天狗面や獅子の先導で神輿行列は隠岐神社へ戻ります。

神輿が神社まで戻った後には、祝餅投げも行われます。今回の式年祭は前日の荒天により記念刀奉納式、日本伝統猿回し、居合奉納演武は中止となりましたが、一部の項目は後日執り行われる予定です。

隠岐の文化へ色濃く影響を残した後鳥羽上皇をお祀りする隠岐神社。ぜひ隠岐へお越しの際にはお立ち寄りください。またこのように特徴的なお祭りや伝統芸能が隠岐には多く残っており、こうした祭事や伝統行事を旅の目的とした観光客の方にも多く来島していただいております。ぜひ大自然や絶景だけではない、ディープな隠岐の文化を味わいにお越しください。

お祭りの様子を動画にて当機構の公式Instagramにて掲載しております。ぜひご覧ください。

今回のお祭りの他にも隠岐の見所を日々沢山ご紹介しております。ぜひこの機会にフォロー下さいませ。

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